そして男は時計を捨てた・・・ひとり編集長の冒険

ブログ「そして男は時計を捨てた・・・」は、 みなさんの知らなかった知識や情報入手をお手伝いしていきます。ぜひこのブログを活用して、みんなで勉強していきましょう!画像のないテキスト中心のブログです👍毎日、記事更新中!土、日は更新多めです。たくさん更新するよ😚いろんな人たちにシェアしていってください👍1万記事を目指してひとり編集長はがんばります❗編集長と一緒に冒険しよう😊 

1980年12月8日、拝啓、ジョン・レノン 後編

f:id:Cupidpsyche:20201209203605j:plain



その日の午後、チャップマンはダコタハウス前の歩道にいました。今度は仲間も引き連れて。ニュージャージー州から来たビートルズ・ファンで、カメラが好きなポール・ゴレッシュ。


ゴレッシュによると、チャップマンは「ここ3日間、ジョンのサインをもらおうと待っている」と話しています。午後5時、ジョンが妻と一緒にスタジオへ向かうため建物から出てきました。



チャップマンはおずおずと彼に近づき、サインをもらおうとジョンとヨーコの最新アルバム『ダブル・ファンタジー』を差し出しました。ジョンはそれを受け取り、サインをしました。その瞬間をゴレッシュは写真に撮りました。チャップマンはひどく興奮し、「ハワイじゃ誰も信じてくれないだろうな」と語ったといいます。


2人はさらに2時間、ダコタハウスの前で待ったのです。ゴレッシュが帰ろうとすると、チャップマンが引き留めました。


ジョンはもうすぐ帰ってくるだろうから、今度はゴレッシュがサインをもらえ、と。ゴレッシュは、またの機会でいいと答えました。



ところが、チャップマンは「僕なら待つけどな」と真顔で言い放ちました。


「だって、もう二度と会えないかもしれないから・・・」


レノン夫妻は10時半までスタジオに詰めていました。そして10時50分、夫妻を乗せたリムジンがダコタハウスの72丁目側の入り口前に止まりました。ヨーコが先に降り、ジョンがその後に。中庭に続くアーチに差し掛かったときジョンは後ろから声を掛けられたのです。



「ミスター・レノン!」。


ジョンが振り返ると、チャップマンが両手で拳銃を握って立っていたのです。1・5メートルの至近距離でした。チャップマンは発砲し、ジョンの背中と肩に4発の銃弾を撃ち込みました。


ジョンはよろめきながら6歩進み、ドアマンのオフィスで倒れこみました。ヨーコはジョンの頭を抱きかかえ・・・チャップマンは拳銃を捨てました。


ドアマンが「自分が何をやったか、お前は分かっているのか?」と聞くと、チャップマンは「ジョン・レノンを撃った・・・」と落ち着きはらって答えました。


ドアマンの通報により、警察は数分後に到着しました。チャップマンはその場から逃げようともせず、J・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を読んでいたといいます。



意識半ばで大量に出血していたジョンは、パトカーの後部座席に乗せられました。警官のジェームズ・モランは「自分が誰だか分かるか?」と問い掛けたが、ジョンは話すことができませんでした。



ジョンはうめき声を上げながら、分かると言わんばかりにうなずきました。モランのパトカーを追うように、ヨーコを乗せたもう1台のパトカーが15ブロック離れたルーズベルト病院へ向かいました。


ジョンは病院に搬送されましたが、既に全身の血液の80%を失っており、手の施しようがなかったのです。30分後に死亡が宣告されたが、ヨーコは信じられなかったのです。


「私の夫はどこにいるの?」と聞く彼女に、担当医のスティーブン・リンは深呼吸してから言いました。


「とても悪い知らせがある。最善を尽くしたが、あなたの夫は亡くなった。苦しむことはなかった・・・」。


ヨーコはその言葉を理解することを拒みました。「どういうこと? 彼は眠っているの?」。そう言って、すすり泣くばかりでした。



深夜、ヨーコは知人に付き添われて帰宅し、世界中で3人だけに電話を入れました。ジョンの長男ジュリアン、育ての親であるミミ・スミス、そしてポール・マッカートニーです。


「ジョン・レノン死す」のニュースが街中に広まると、誰が言い出したわけでもないのに、ダコタハウスの前には祈りをささげる人々が集まり始めました。ジョンの歌を歌い、ろうそくをともし、門に花束やジョンとヨーコの写真を飾り、急ごしらえの祭壇を作ったのです。



元ビートルズの仲間のうち、あえてニューヨークまでやって来たのはリンゴ・スターだけでした。ジョージ・ハリスンはレコーディングの予定をキャンセルして家に引きこもりました。ポ-ル・マッカートニーは「独りでジョンの死を悼みたい」と言いました。


ヨーコも人前には出ませんでした。事件から2日後、彼女は息子のショーンに父の死をどう伝えたかを文章で発表しました。


そこには「パパは神様の一部になったんだ。人は死ぬと、すごく大きくなるんじゃないかな。だって全ての一部になるんだから」という、ショーンの言葉も紹介されました。


そしてジョンの葬儀は行わないとして、彼の死を悼みたい人は日曜日の午後、彼の遺体が火葬された後に、「その時間、どこにいようが」10分間の黙祷をささげて彼を送ってほしい・・・そういう内容でした。


ジョンは年齢、人種、階級を問わず広く支持されていましたが、この事件で最高にショックを受けたのは、20代後半から30代のベビーブーム世代だろう。サンフランシスコの27歳は「私たちは彼と一緒に育ってきたの」と言い、ダラスの32歳は「これで60年代を葬り去る棺桶に最後のくぎが打ち込まれた」と嘆いた。


喪失感・・・それはとても大きく、しかし、これで1つの時代が終わったと考えるのは間違いかもしれないのです。ヨーコは彼を送った翌日にこう語っています。


「私たちには、一緒にやりたいことがいっぱいあった。80歳まで生きようって話していた。もう、それはかなわないことになってしまった。でも、私たちの伝えたいことが終わったわけじゃない。音楽は生き続けるから・・・」


その音楽がある限り、ジョン・レノンは生き続けているのです。


2020年12月8日・・・拝啓・・・ジョン・レノン様、お元気ですか・・・僕はなんとか元気です・・・😉