そして男は時計を捨てた・・・

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廃棄された宇宙ステーション「ミール」事故と奇跡

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ロシアの「ミール」が地球に落下して2021年で20年、その歴史を振り返ります。



その時、宇宙ステーション「ミール」内に残された酸素は24分間分。突然、マイケル・フォール氏の耳が痛みました。なぜなら、外壁にあいた穴から空気が抜けているせいで、圧力が低下しつつあったからです。



フォール氏はミールの脱出ポッド(ソユーズ宇宙カプセル)に一人で座り、同僚のロシア人宇宙飛行士2名が合流するのを待っていました。ところが、その頃、彼らは必死になってミールの中を駆けずり回り、無人補給船がミールを構成する接続ノードに衝突して空けた穴の場所を特定して塞ごうとしていたのです。



暗闇の中で待っていたフォール氏の頭に、訓練中に繰り返し言われたことがよぎりました。



「酸素残量が30分を切ったら、船を捨てるべきだ・・・」



じりじりと時間だけが過ぎていきます。ロシアのクルーは姿を見せないが、ロシア語で交わされる2人の叫び声が聞こえてきます。ただ、あの時はっきり分かったのは・・・



「あの2人は、ミールを離れる気がなかった・・・」



当時のミールは、まさに死につつあったのです。稼働から11年になる宇宙ステーションは、このときすでに予想耐用年数を5年も過ぎていました。



それでもミールを作ったロシア人たちは、あらゆる手を尽くして、その後さらに4年にわたって、ミールを軌道に乗せ続けました。そしてついに迎えた運命の2001年3月23日。



ロシア人が愛するミールの存続をあきらめ、地球の大気圏に突入させました。こうして、宇宙ステーション「ミール」は南太平洋上空で炎に包まれて最期を迎えたのでした・・・



ミールが誕生した経緯は何だったのでしょうか?



きっかけは米国が月面着陸を成功させた後、つまりソ連にとって暗黒時代にありました。なんとしても面目を保ちたかったソビエトは、宇宙ステーションの建造を優先したのです。その目的は、地球の上空を恒久的に占有し、微小重力実験や、ソ連軍にとって非常に重要な地表の観測を行うことだった、とされています。



米国が1972年に最後の月面歩行を行う8カ月前、ソビエトは世界初の宇宙ステーションとなる「サリュート1号」を打ち上げました。それから14年後、「ミール」は初のモジュール式宇宙ステーションとして誕生し、2回目以降のミッションで、合計6つのコンポーネントがミールに追加されました。



米国では、NASAが独自の宇宙ステーションを切望していました。しかし、スペースシャトル計画が予算の大半を消費していたため、唯一の希望はその費用を支払うのを助けてくれるパートナーを見つけることでした。そのパートナーとなったのが「ミール」を送り出したソ連だったのです。



当時のソ連は、自国の宇宙計画の費用を捻出するのにも苦労していました。事実、1989年にソ連経済が苦境にあった時、ミールにいたクルーは、自分たちは地球に戻れるのか不安に感じたといいます。



1993年、ロシアと米国は共同で国際宇宙ステーション(ISS)計画を発表しました。これで理屈上は、両国が資源と専門知識を新たな宇宙ステーションに注ぎ込むことになります。この合意によってISSの建設は確実となったのですが、一方でNASAは、資金力のないロシアが分担金を支払えるはずがないことを最初からわかっていたのです。



議会は、NASAがロシア側に資金を渡すことを厳しく禁じていたといいます。ただNASAが、ロシアの尽力に対価を支払うことは可能でした。そこで、NASAから相手に何億ドルも支払って、ミールに米国の宇宙飛行士を搭乗させてもらうことにしたのです。



その頃のミールの中は、パイプの漏れ、電子機器のショート、カビの繁殖といった、まるで悪夢のような環境でした。



NASAがロシアにこの金を支払い続けた唯一の理由は、そうすることで相手にISS建設のタイムスケジュールを守ってもらうためでした。



結局、米国はあわせて15億ドル(現在の金額で約1630億円)をロシアに対して支払うことになったのです。



米国から最初にミールに搭乗した3人、ノーマン・サガード氏、シャノン・ルシッド氏、ジョン・ブラハ氏は、1995年と1996年に比較的平穏な滞在期間を過ごしました。1997年1月にスペースシャトルに乗ってミールを訪れた医師のジェリー・リネンジャー氏も、同じような経験を期待していたに違いありません。ただ、その1カ月後、リネンジャー氏は、危うく米国初の宇宙での犠牲者になりかけたのです・・・



全盛期のミールは、人類が作った宇宙で最大の構造体でした。現在はウィスコンシン州の子供向け博物館に展示されているミールのセントラルノードは、スクールバスほどの大きさで、5つのポートがある部屋につながる舷窓があり、5つのポートは、それぞれ別のモジュールにつながるようになっていました。



一つの壁には、ミールと一緒に打ち上げられたギターがかけられ、そのそばにある2つのスキューバタンクのように見えるものが、ミールの酸素発生装置で、過塩素酸リチウムのカートリッジを加熱して酸素を発生させていました。



1997年2月23日、酸素発生装置のキャニスターの一つが炎を上げ、ミール内に酸性の煙が充満しました。顔のすぐ前にある手も見えないような状態の中、クルーたちはなんとかガスマスクを着けましたが、中にはまともに機能にしないものもあったのです。壁から消火器を取り外そうとしても、きつく固定され動かせない始末でした。



ロシアは、この火災は90秒間だったと報告していましたが、実際の時間は14分。しかもロシアは、宇宙飛行士が火を消したとしていますが、実際には自然に燃え尽きたのです。



海軍で訓練を受けた医師のリネンジャー氏は、同僚たちのやけどの手当をしました。彼は事故報告書を提出しましたが、NASAがロシア側の話をほぼそのまま繰り返すのを聞いて困惑したのです。



NASAの見解は、この事故はたいしたことではなく、ISSのためのいい訓練になったというものでした。ロシア側は、この事故の前にも何度も火災があったことをNASAに伝えていなかったのです。



1997年5月17日、天体物理学者のマイケル・フォール氏がリネンジャー氏と交代したとき、ミールの壁にはまだ火災の跡が残っていました。



つい最近火災があったにもかかわらず、最初のうち、フォール氏はミールに4カ月以上滞在することに不安を感じてはいなかったといいます。



「奇妙だとは思いましたが、すでに解決されたことですし、もう起こることはないと考えていました・・・」



フォール氏が宇宙飛行士になったのは、1986年のチャレンジャー号爆発事故の直後でした。


「悪いことは打ち上げのときに起こるものだという気がしていました。宇宙に着いてしまえば、わりと静かなものですから・・・」



フォール氏がミールに到着してから1カ月後、静けさは突然、破られることになります。


何年も前から、ミールは、「プログレス」と呼ばれる無人の補給船に物資を運ばせていました。危険を伴うドッキング作業は、常にウクライナ政府が所有する技術を用いて行われていました。



しかし、資金繰りに困っていたロシアは、ウクライナにお金を払いたくないため、試しに手動でのドッキングを行ってみることにしたのです。遠隔測定は行わず、宇宙飛行士のヴァシリー・チブリエフ氏がビデオ画面をにらみながら、数本のジョイスティックを操作するだけでした。



ドッキング試験の最中、フォール氏は自分の居住区画兼科学実験室として使っていたミールのノードの一つ「スペクトル」の窓に配置されました。彼の使命は、接近してくるプログレスの速度を、レーザー距離計を使って測定することでした。



プログレスがミールに予定よりも速いスピードで接近してきます・・・


突然、機体が揺れます。プログレスが太陽電池アレイを引き裂いて、スペクトルに衝突したのです。気圧が危険なほど低下していることを知らせるサイレンが鳴り響きます。規則通りに、フォール氏はソユーズカプセルに入り、地球に向かって脱出するために他のクルーを待ちます。



ロシアクルーの2人が現れないため、フォール氏は危険を承知でミール内に戻りました。すると、宇宙飛行士のアレクサンドル・ラズトキン氏が、絡み合った電源コードを外して、損傷したスペクトルを密閉して空気の漏れを止めようと奮闘している姿があったのです。



しかしそのケーブルは、ミールにもとからあった効率の悪い太陽電池を補うために設置されたスペクトルの太陽電池アレイから電気を運んでいるものでした。ケーブルを1本切断するたびに、文字通りミールの生命線が切断されていきます。



ついに最後のケーブルが外されました・・・貴重な空気がこれ以上スペクトルへと流れ出さないようにするには、もう一つ必要な作業がありました。スペクトルへの通路を、専用のカバーで塞ぐ作業です。



「しかし、まずはそのカバーを探さなければなりませんでした。カバーはもう何年も前に、紐でしばってどこかに仕舞い込んであったからです。ようやくカバーを見つけて取り付けると、吸い込まれる力で所定の位置に収まりました」とフォール氏。



空気漏れが止まったのは、酸素の残りがあと7分間分になったときでした。



そして、照明が消えました・・・


スペクトルの太陽電池パネルとは切り離され、残りのパネルは太陽光があまりあたらない位置に回転していました。船上の不気味な静寂に、フォール氏は衝撃を受け、ずっと聞こえていたミールの換気扇の音さえ消え去っていました。



電気を失ったことでジャイロスコープは停止し、ミールは制御不能に陥ったのです。この現象は、太陽電池パネルの向きが変わって、太陽光を受けられなくなるたびに起こるもので、それまでにも何度も発生したことがありました。



しかし今回は、最も効率の良い太陽電池パネルが故障していたため、ミールを安定させて古いパネルの位置を調整しない限り、ジャイロは再起動しません。



ミールは3分に1回回転しています。そこでフォール氏は、ソユーズのエンジンを短く数回噴射して回転を遅らせることを提案しました。数度失敗はしましたが、何とかミールを安定した状態に保つことができたのです。



こうして古く効率の悪い太陽電池パネルが、一定時間ごとに作動するようになりました。24時間後、ミールがロシア上空を通過する際、モスクワの管制官はようやくミールに新しい命令を送り、機体を安定させることに成功しました。



それから1年半の間に、フォール氏に続いて2人の米国人宇宙飛行士がミールに滞在し、その間、米国とロシアはISSの建設を進めました。ロシアはミールを新たな宇宙ステーションの中核とすることを強く主張していましたが、最終的にはこれを断念しました。



こうして1998年11月20日、ISSの最初のコンポーネントとなる、ミールとよく似たロシア製のセントラルノードが、カザフスタンのバイコヌール宇宙基地から打ち上げられました。



しかし、米国はどうして老朽化して危険性が年々増すミールを支え続けたのでしょうか?


「わたしはクリントン大統領に尋ねてみました」とフォール氏は言います。


「『米国がミールを助けたのは、ロシアクルーがイランや北朝鮮のために仕事をすることを妨げるためだったからです』と言いました。大統領はしばらく間をおいてから、『あくまで理由の一つですけれどね』と言いました」



しかし、もう一つの大きな理由がありました。それは、ロシアはISSにおける対等なパートナーであるという建前を保つこと。


今から50年後、人々がISSの大成功を振り返ったとき、このプロジェクトに関わったNASAの人々は一躍ヒーローになりえるのです。なぜなら、一人も犠牲にならなかったのですから・・・



2001年、ミールは炎に包まれて宇宙の旅を終えました。新たな所有者・運営者探しが幾度も頓挫し、ロシアは不可避の事態を受け入れました。こうして2001年3月23日、ミールのすべては燃え上がるかけらとなって地球に帰ってきたのです。それでも、ミールの遺産はこれからも生き続けていきます。



ロシアの宇宙計画の進め方を批判することはいくらでもできます。しかし、ロシア人はこう言うのかもしれません。


「米国は15年前にスペースシャトルを失ったでしょう。こっちはその間、ずっとISSを動かしてるよ」



それに異論を唱えることはできないのです・・・