そして男は時計を捨てた・・・ひとり編集長の冒険

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茂吉われ院長となりいそしむ・・・

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斎藤茂吉(1882~1953年)は生まれ故郷の山形県で小学校を終えた後、東京で医院を開業していた親戚の斎藤紀一の家に寄宿して、中学校に通いました。紀一は茂吉に医学を学ばせ、もし出来が良ければ養子にしようという気がありました。




茂吉はその期待に応えようと勉学に励み、やがて、紀一の次女の輝子の婿養子として斎藤家に入ります。その一方で文学者としての歩みもここから始まりました。1913年に茂吉の第1歌集「赤光」を発表しました。後年は国民的大歌人として広く人々に敬愛されました。




現在の東京都台東区三筋に紀一の「浅草医院」がありました。茂吉は上京から約4半世紀後、当時を回想して「浅草の三筋町なるおもひでもうたかたの如や過ぎゆく光の如や」という歌を詠みました。




その短歌を刻んだ歌碑が、三筋保育園の庭に立っています。




また、茂吉は「三筋町界隈」という随筆で、実父に付き添われて上京した前後のことを回想しています。仙台にて、生まれて初めてもなかを食べて、上野駅では、こんなに明るい夜が実際にあるのかと驚愕しました。紀一はどんな病気でも診る医者であり、大勢の書生を抱えていました。




茂吉が高校で学んでいた1903年に紀一はドイツ留学から戻り、精神科の専門医として神田和泉町に「帝国脳病院」を設立しました。続いて青山に「青山脳病院」を開き、その壮大さで人々の目を驚かせたのです。茂吉もまた精神医学を専攻して、院長職を引き継ぎました。




「茂吉われ院長となりいそしむを世のもろびとよ知りてくだされよ」
「脳病院長の吾をおもひ出さむ濁々として単純ならず」といった歌があります。




斎藤茂吉の次男で小説家の北杜夫は、自身の著書「どくとるマンボウ青春記」の中で、旧制松本高校に入学した頃に父、茂吉の歌集を読んで、「おっかないやりきれない父であった茂吉は、だしぬけに尊敬するに足る歌人として私の前に再出現した」と回想しています。




その他に北杜夫には、斎藤家をモデルにした大河小説の名作でもある「楡家の人びと」もあります。



茂吉われ院長となりいそしむ・・・みなさんも何かにいそしんでください😅