そして男は時計を捨てた・・・ひとり編集長の冒険

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ヘルン先生は世界を知り、そして日本を愛した・・・

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1850年、ギリシャのレフカダ島に生まれたラフカディオ・ハ-ンは1904年、日本人小泉八雲として変化に富んだその一生を終えました。



八雲が最後に住んだ東京、大久保には旧居跡の碑と「小泉八雲記念公園」があり、教え子からは「ヘルン先生」の呼び名で親しまれた世界的な文学者のその功績を後世に伝えています。



八雲は幼い時に父の故郷であるダブリンへ移り、イギリス、フランスで教育を受けました。アメリカへ渡って新聞記者として活躍した後、40歳を前に日本へやって来ました。



松江、熊本で英語教師を務め、神戸では英字新聞の記者を務めました。日本の風物を紹介する随筆、妻のセツから聞いた伝承物語を再話した怪談をはじめとする著書の数々は、今もなお読み継がれています。



やがて、八雲46歳の時、帝国大学文科大学講師の辞令を受けて上京し、英文学の講座を持ちました。当時の学生の中には上田敏、土井晩翠、小山内薫などがいました。



知識を授けるだけではなく、日本人が西洋の文学を学ぶことの本当の意味を考えさせるその講義の内容は一線を画していたのです。



東京、大久保には1902年から暮らしました。広い庭のある日本家屋を買い、建て増しは全て、妻セツに任せました。八雲の唯一の注文は、スト-ブをたける部屋があり、書斎の机は西向きに置くという2つだけだったといいます。



セツの回想記には「引き移りました日、ヘルンは大喜びでした」と書いてあります。



1903年に大学から突然解雇を通知されてしまい、八雲は大きなショックを受けてしまいます。



八雲の解雇に反対した帝大の学生たちは、留任運動を起こしましたが、実ることはありませんでした。その後任を任されたのが、当時イギリス留学から戻ったばかりの夏目漱石です。



漱石は妻の鏡子にこう漏らしたといいます。



「小泉先生は英文学の泰斗でもあり、また文豪として世界に響いた偉い方であるのに、自分のような駆け出しの書生上がりのものが、その後釜に座ったところで、到底立派な講義ができるわけのものでもない・・・」



そして、翌1904年、早稲田大学へ招かれて講師を務めるのですが、その半年後に急逝しました。



追伸、ヘルン先生へ・・・あなたほど世界を知り、そして日本を愛した作家は他に誰もいないでしょうね・・・😉