そして男は時計を捨てた・・・ひとり編集長の冒険

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命より名を重んじる・・・ 情けないあだ名をつけられた武将

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遠い昔、女遊びが原因で、敵に城を落とされた武将がいた・・・。その後、彼の評判は地に落ちてしまい、情けないあだ名をつけられる始末に。しかし、そんな彼が、最期の瞬間に名誉挽回の反撃に出た!😃 みなさん終盤までにはハンカチのご用意を😅




異性関係で失敗して、表舞台から去る芸能人は後を絶ちません。不倫やいけない関係についつい夢中になってしまい、それが露見して、人々からそっぽを向かれ、とくに、清々しさや夫婦円満をアピールしていた芸能人などは致命的です😭




戦国時代にも、異性関係で評判が地に落ちた武将がいました。薄田兼相(すすきだ・かねすけ)という武将です。それほど有名ではありませんが、じつはこの失態がきっかけで名を残したという人物。




大坂冬の陣(1614)のとき、「橙武者(だいだいむしゃ)」という言葉が大坂城中で密かなる流行語となりました。橙というのは、大粒の柑橘類で色鮮やかな実ですが、とても食用にはならず、正月の飾り物としてしか使えません。それゆえ、見かけは立派ですが、何の役にも立たないという意味で、橙武者という言葉は使われたのでした。




そんな情けないあだ名をつけられたのが、先程の薄田兼相でした。しかし、この武将の前半生は、不思議なことにまったく不明なのです。ただ、岩見重太郎と同一人物ではないかとする説があります。重太郎の父・重左衛門は、毛利一族の小早川隆景の剣術指南をしていましたが、あるとき広瀬軍蔵という男にだまし討ちされてしまいます。息子の重太郎は、復讐のために広瀬を探して仇討ちの旅に出るのです。




その旅の途中で彼は、数々の武勇伝を残しています。一人で山賊を皆殺しにしたとか、仙台で大蛇を退治したとか、信州松本で妖怪を退治したといった逸話の数々です。




もちろん、後世の作り話でしょうが、天正18年(1590)、日本三景の一つ・天の橋立において、重太郎は仇の軍蔵を打ち倒し、その名は天下に知れわたったのです。




が!その後の重太郎の確かな足取りがわからないのです。伝承として、豊臣秀吉に見いだされて馬廻り役に抜擢され、三千石で仕えたといいます。このおり重太郎は、叔父方の苗字に変名したとされ、その名こそが薄田兼相であったと伝えられています。あくまで巷説であって、一次史料は存在しません。




それでは、なぜ同一人物になったかということですが、それは薄田兼相の前半生も不明であり、なおかつ、重太郎と兼相の二人が、武術にすぐれた大男である点で一致しているかもしれません。




事実、兼相を祖とする「兼相流」(柔術)と「無手流」(剣術)と称する流派が、かつて存在していたことが判明していて、兼相も相当な兵法者だったらしいのです。そうした似た者同士を、江戸時代の講談師などが巧みにつなぎ合わせて一人の生涯とし、面白おかしく話をつくったのだろう、というのが、現在の有力な説です。




徳川幕府と決裂した大坂城の豊臣氏は、冬の陣の直前、幕府軍の来襲に備え、多くの砦を急造して兵士を入れました。その最大のものが、木津川のほとりの博労淵砦(ばくろうぶちとりで)であり、砦の大将に選ばれたのが薄田兼相、その人だったのです。




砦には、およそ700の兵が籠もり、木津川からのぼってくる幕府軍を警戒するとともに、偵察に来た敵兵を、蘆の茂みを楯にして巧みに射殺していました。




このわずらわしい博労淵砦を奪ってしまおうと計画したのが、幕府方の蜂須賀至鎮でした。至鎮は、博労淵の周辺より避難してきた商人から、砦の守備があまり堅牢でないことを聞き知っていたのです。まさに功を成すチャンス到来!😡そこで至鎮は、幕府に攻撃許可を求めましたが、どうしたわけか幕府は、これを許さず、博労淵の攻略は石川忠総に命じたのです。




石川隊は、11月28日深夜、2300の兵を率いて、博労淵の対岸に浮かぶ葦島に密かに上陸し、臨戦態勢を整えたのち、翌日未明、小舟に分乗して博労淵を目指しました。




敵の接近に気づいた博労淵の守備兵は、盛んに櫓上から鉄砲を放ったため、石川隊は多大な犠牲者を出してしまったのです。




そして、この物音に気づいたのが、先の蜂須賀至鎮だったのです。至鎮は遅れてはならずと、部下を叱咤して博労淵へ向かわせました。石川隊も激しい銃弾が注がれるなか、渡河を強行して敵前上陸を敢行。こうして石川隊と蜂須賀隊が来襲すると、守備兵は戦わずして逃げ散りました。かくして博労淵は難なく、幕府方の手に落ちたのです。




この襲撃が敢行された日、守備隊長の薄田兼相は砦にいきませんでした。よんどころのない用事で留守にしていたわけではありません。なんと!😱驚くべきことにこの男は、前夜から近村の遊女屋に入り浸って、女を抱き続けていたのです。ありゃま😅




大将がそんなことでは、守備兵たちの志気が上がるはずもありません。敵前逃亡したのも無理からぬことでした。敵の接近を聞いて兼相が駆けつけたときには、すでに砦は敵の手中に落ちてしまっており、この日から兼相は、橙武者と陰口を叩かれるようになってしまったのです😭




しかし、兼相は橙武者という嘲笑を受けながらも、冬の陣の後も大坂城に残りました。講和によって堀を埋められた大坂城は裸城となり、豊臣方の重臣たちの多くが幕府方に寝返って城を撤退していました。そのため、当初は十万人いた城兵もだんだんに逃げてしまい、夏の陣のさいには、半数近くにまで減ってしまっていたのです。




もはや、豊臣氏を待っているのは、決して勝ち目のない戦でした。そうした現状を知りつつも、また、皆に橙武者と馬鹿にされながらも、なぜ兼相は城内に踏みとどまったのでしょうか?それは、純粋に豊臣秀頼に対する忠義心からなのでしょうか?




ここからは、勝手な推測ですがこの男は、次の戦いで、自分の汚名を返上できることだけを切望して、城内に残留したのかもしれません。




たとえ、兼相が岩見重太郎でなかったとしても、彼がすぐれた兵法者であることには変わりはありません。それゆえ、自分の雄姿を世間に知らしめ、博労淵での汚名を返上したかったのです。この男には、己の生命なんかより名誉回復のほうが、ずっと大切だったのです😅




命より名を重んじる・・・。もちろんそれは、大坂城に残った兵士の大半にあてはまる気持ちだったのかもしれません。絶望的な戦いにあえて立ち向かってゆくことで、彼らは自分の名が後世に残ると信じたのです。こうした精神構造は、今日の私たちには想像しにくいかもしれません。




さて、兼相😡彼の見せ場は、夏の陣で突然やってきました。




すでに、大坂城には堀がありません。しかも周囲は広大な平坦地です。もし幕府軍の来襲を受けたら、城を防御する手だてはありません。そこで真田幸村(信繁)、後藤又兵衛、毛利勝永たちは、大和方面から進軍してくる幕府軍を、狭隘な国分峠あたりで待ち受け、総力を結集し、撃退しようと考え、5月6日の夜明け前に道明寺(国分の手前)付近で合流することを決めました。




しかし、当日は濃霧がただよい、各軍の到着が大幅に遅れたのです。このとき、最初に道明寺についた後藤又兵衛は、後続部隊の到着を待たずに進軍し、小松山に陣取り数時間にわたって、雲集する数万の幕府軍を手こずらせました。




やがて、又兵衛は力尽きて倒れ、後藤隊は壊滅します。400の兵を連れた兼相が道明寺に到着したのは、ちょうどその頃でした。




後藤隊の敗残兵がくたくたになって退却してきましたが、そのはるか彼方に、黒い固まりが見えたのです。今や十万に膨れあがった幕府の大軍です。




兼相は崩れそうになる部下を叱咤し、突撃を命じました。しかし、踏みとどまったのはわずかに30人ほど。しかも、すぐ幕府軍に取り囲まれてしまい、功を焦った敵兵たちが首を奪おうと殺到してきたのです。




このときにあって兼相は、歴史に残る奮戦をします。それは、彼の活躍を記した多くの古記録が証明しています。そう!よほどの働きをしなければ、あそこまで多数の書に兼相の戦いぶりは記録されなかったはずなのですから。




この日、兼相は、星兜をかぶり、渋皮色の鎧を身につけ、十文字の長槍を手にして馬上にあったといいます。彼は巨大な体躯を持っていて、しかも威風堂々としていたので、傍目にも、ひとかどの将たることは一目瞭然でした。それゆえ、敵兵は皆ほかの武士には目もくれず、一斉に兼相に襲いかかっていったのです。




兼相は、この群がる敵を数人、たちまち長槍で刺し貫き、槍が折れると大刀を抜き放ち、接近する敵の肩を鷲掴みにし、手元に引きよせては、次々と首を掻き切っていきました。




しかし、しばらくして兼相は落馬します。一説には、銃弾を受けて落ちたとする説もあります。いずれにせよ、歩行になった兼相は、すぐさま気を取り直し、敵陣に駆け込んで7、8人を斬りまくり、さらには折れた槍の柄で多数を殴りつけて昏倒させたと伝えられる、まさに鬼神のごとき戦いぶりだったのです😡




しかし、人間であるかぎり体力には限界があります。ついに動きの鈍るときが来てしまったのです。そこをすかさず、河村新八という武士が組みつき、格闘の末、兼相の首をもいだのでした😭




きっと、きっと兼相はそれで本望だったのでしょう。なぜなら、橙武者の汚名が、この奮戦によって完全に返上されたからにほかならないからです😉




あっぱれ!兼相!私たちはこんな武将がいたことを後世に語り継いでいこうではありませんか😅